「はじめてのベルクソン」を読み終えた。
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ある作品、とくに巨匠の作品について「これは本当だ」となぜ言うのでしょう。偉大な芸術と単なる空想との違いはどこにあるのでしょう。私たちが彼らの絵を受け入れて感動するのは、彼らの絵の示すものの何ほどかを、私たちがすでに見たことがあるからです。
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下り坂を遡るとは、知能が自動的に行っている時間の完了化に対して、遅延を差し挟むことだと言えるでしょう。もちろん、完全に完了化を完全に停止することはできません。私たちは知能とともに生きているからです。しかし、一拍の間を持つ能力を持つこと --- いま自分の知能が何をしているかを自覚し、その自覚の隙間にまだ動いている時間の気配を感じること --- それだけで世界の見え方は変わるはずです。
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ラプラスの魔が万能でありうるのは、物理的な世界では同じ一般法則がずっと成り立つからです。ある原因が与えられたとき、同じ条件のもとでは同じ結果が生じる。ボールを同じ角度、同じ力で投げれば、同じ軌道を描く。たった一回の投擲がどれほど鮮やかであろうと、それで運動法則が揺らぐことはない。法則は個別の出来事を受けないところで成立しているのです。
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しかし、心はそうではありません。ある感覚を受け取ったとき、それが私にどれほどの影響を及ぼし、どの方向に私を動かすかは、私のこれまでの経験の全体 --- 記憶、感受性、価値観の織物 --- によって左右されるだけでなく、逆に経験の全体のほうを左右しうる。つまり法則に当たるもの自体が、出来事によって大きく変わる。そしてその織物は世界にただ一枚しかない。意識の深層では、あらゆる要素が互いに浸透しあい、響き合っている。同じ言葉ある人には決定打となり、別の人にはかすりもしない。それどころか、同じ人であっても、昨日と今日では受け止め方が変わっている。感受性の地形そのものが、経験とともに刻々と変わり続けているからです。
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[ベルクソンの凝縮説] 物質とは固定的で静的な物体の集まりではありません。それはどこまでもミクロな振動の場です。あらゆる物質は振動しており、振動には時間スケールがある。ただし、そのスケールは私たちの知覚に比べて桁違いに小さい。赤い光を例にとれば、その振動数は1秒間に約400兆回です。つまり私たちの「一瞬」のあいだに、何兆回もの振動が起こっている。物質の時間スケールと、私たちの知覚の時間スケールのあいだには途方もない開きがあるのです。この落差こそがクオリアを生むという仮説。
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エラン(elan)という花束は根本から全方向に広がろうとします。エランとはあらかじめ一つの方向に限定されていない、全方位的な広がりなのです。それが物質的な制約と出会うことで「こちらには進めない、こちらの方向は閉じる」と絞り込まれていき、結果として特定の枝だけが残る。分岐とは一つの枝が二つに割れることではなく、全方位の可能性が特定の方向へ絞り込まれていくプロセスなのです。
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[回顧的錯覚] 新しいものが生まれた後で「最初から可能だった」と遡及的に読み替える知能の癖
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回顧的錯覚を生み出しているのは、まさに知能の働きです。複数の可能性が見渡せるということは、結果が出た後に「ほら、この可能性は最初からあったじゃないか」と事後的に回収できるということでもある。可能性の枠組みが新しさを不可視化してしまう。知能は個体が創造的であるための前提条件であるけれども創造性そのものを保証しはしないのです。
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たとえば、死の恐怖に怯えて動けなくなりそうなとき「祖先の霊とのつながり」という物語が胸にあれば、人はまた立ち上がって行動できます。誰も見てない場面で不正を働きそうになったとき「お天道様が見ている」という物語がブレーキをかけてくれます。これらは近代的な理性から見れば非合理な迷信に見えるかもしれません。しかし決して知能のバグではない。むしろ知能が引き起こすバグ(社会の崩壊や生の否定)に対して既存の手札をたくみに転用した実に合理的な対抗措置なのです。
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現代の私たちは、すぐ終わること、すぐ決まることをよいことだと思いがちです。逆に、なかなか終わらないこと、すぐに決めきれないことは、効率の悪さや迷いとして処理される。しかし、本当に新しいことが生まれる場面ではこの遅さそのものが力になります。まだ決め打ちにしていないからこそ別の線が見えてくる。既定の手順から零れ落ちたものを拾い直し、地図そのものを描き替えることができる。手探りやためらいは、時間が何かを成し遂げている徴しなのです。
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現状の地形がうまく働いている限り、拾われなかった無数の過去は、ただ余分なもの、無用なものに見えるかもしれません。けれども、いざ地形そのものを描き換えなければならないとき、その眠っていた過去こそが資産になります。伏線ではなかったものがあとから伏線になる。無駄に見えた経験が、まだ見ぬ弾道を描くあらたな起点に変わる。しかもこうした過去の編み直しには「これで終わり」という時点がありません。未完了とはまだ未来が決まっていないというだけではない。過去を別の仕方で読み直し、そこから未来へ向けて、まったく別の弓を引き直す余地が残されているということなのです。
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以上引用です
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「はじめての」という冠に惹かれ読んでみたのだけど難しかった。
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理解できたのは、ぼんやりと3割くらい。
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何度も同じ行をなぞりましたわ。
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「時間とは何か」ではなく「時間についてどのような錯覚のなかにいるか」というのが肝要。道徳と宗教が絡むあたりから面白くなってきた。
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以前読んだ「ゾウの時間、ネズミの時間 サイズの生物学」にも通じるところがあるかも。あとはナラティブの力と、偶然の必然性みたいな。
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物理科学を否定しているわけではなく、それらで証明できたものがあるからこそベルクソンの概念が成り立つのかな。
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最期に印象に残ったところを
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時間とは、すべてが同時に起こるのを妨げるもの(ウディ・アレン)
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哲学を完全に理解はできないし、する必要もないと思う。
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ただ、少し立ち止まって考え、曖昧さに耐える力を養う機会を与えてくれる。
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そういう風に思っている。
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