「時の家」を読み終えた。
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第174回芥川賞受賞作。どうしても読みたい。
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人生の全体像を真面目に想像したことなどなかったが、三分の一の時間を消費した時点でこんなに無彩色でだらりとしたものになるとは思っていなかった。結婚でもしていれば、子供でもできていれば、違った色の時間を過ごしていたのだろうか。恋人を作らなくても、子供を作らなくても、ある程度理解ある人に囲まれてしまった今の自分は誰に咎められるでもなく、肯定をされるでもないが否定もされずに、多様性社会に散らばっている余白の穴にすっぽりとはまってしまったようだった。はまってしまったことも否定されずに梯子のない余白の穴の中で、自分は一体何に縋って生きていくのだろうか。
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自分はこれまでの時間の中で何かに目を凝らし、細部に思いを寄せ、掬い上げようとしたことがあっただろうか。いつだって遠目に見て、そのままに判断し、置き去りにしてきたのではないだろうか。木は木としてしか見てもらず、どんな木目を纏い、どれくらい長く日に焼かれどれほどの傷をその身に刻んでいるか知ろうとしたことがあっただろうか。図面の束を前にすると自分の歩み方がいかに粗雑で乱暴なものだったのかが浮き立つようだった。
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やけにのっぺりとした自らの人生を思い出していた、とっかかりのない平坦で無機質な道、それはここで目にした白い漆喰の壁の、のっぺりとした平面のようでありながら、目を近づけると浮かんでくる陰影、起伏、繊維の毛羽立ち、無数の傷跡、そうしたものが同じようにあったのではなかったか。存在する細部の数こそ平等だった。自分はただ拾ってこなかっただけなのかもしれかった。一つひとつに目を凝らさずに、むしろ目の背けるみたいにして生きてきた。自分は一体これまでにどれほどのものを掬い損ねてきたんだろうか。
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「あの時先生、震災で友人を亡くした話をしてて、体に残る揺れにくっついたままになってるんか、その話をなぜかずっと覚えてるんです。揺れを思い出すと話も思い出すし、話を思い出すと揺れも思い出す。やから小さくても大きくても地震が来ると時々、先生の言ってたことが勝手に頭ん中で再生されるんです。死んでしまったことと、長く会えないことって、どう違うんやろ、って」
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「ほら、あのいろはもみじ。幹から繋がって枝を何本も伸ばして、その枝も先にいくにつれていくつも細く分散している。曲がったり真っ直ぐになったり横に伸ばしたりして、横っちょに細くて短いのを急に生やしたりして、ようやくその末端に葉がぶら下がってるやろ。どこも息するみたいに小さく揺れてる。止まってるのなんかいっこもない。その一枚が今や。きみと僕がここにいる、今」
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以上引用です
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リフォーム番組で、家主が家の取り壊しを見て涙をこぼすシーンがある。
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家族の歴史、思い出が詰まっていて一番多くの時間を過ごしてきた大切な場所。そして長年見守られていた主でもある。
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無機質な物体も、時間とともに感情が吹き込まれるとかけがえのないモノに化ける。断捨離の葛藤とも似ているかもしれない。
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物語の主人公は人ではなくこの家だ。
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初代の施主藪さん、二代目緑、そして三代目の圭さん、脩さんの視点がくるくると変わりながら進んでいく。そして彼らの人生を、青年のデッサンが大きく包む。
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緑が「震災から17年たって3年ぶりに少年に会いに行く」の件は阪神淡路大震災(1995年)のことだよね。
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東日本大震災(2011年)だと+17で辻褄が合わなくなっちゃう。
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つまるところ、2009年以来の2012年に会ったと。
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植物や動物、山や川。自然に思いを馳せて感動や癒しをもらうことはあると思う。けれど、冷たい物体に有機的な意味合いを紐づけるには、読み手にも高度な想像力が必要だ。
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著者は建築家でもあり、その発想力と描写が素晴らしかったです。
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