日ソ戦争

読書

「日ソ戦争」を読み終えた。
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「ロシア人は無作法な連中だ。けれどもロシア人たちを日本との戦争に巻き込む最大の目的は、アメリカ人の若者10万人の命を救うことにあるのだ」トルーマン
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ドイツ人を罵倒したスターリンも、条約を一方的に破棄して他国への侵略を繰り返していた。1939年9月には不可侵条約を破棄してポーランドを攻め、ドイツとともにその領土を分割した。まだ同年11月にはフィンランドとの不可侵条約も破棄して攻め最終的には領土を手にした。
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スターリンの署名のないポツダム宣言は意外な効果を発揮した。日本政府は、ソ連は終戦を仲立ちする気をまだ捨てていないと都合よく解釈したのである。この誤った判断が一因となり日本はポツダム宣言を「黙殺」する。結果として日本の降伏前に是が非でも参戦したいソ連の思惑通りとなった。
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「もっと早く私が終戦させようと思っても陸軍がなかなか駄目だ。その点からはおかしな話だが、スターリンの参戦という事で陸軍もあきらめがついたという事にもなるのだ」昭和天皇
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スターリンの戦術は、戦争の帰趨を常に決するのは、銃後の安定、軍の士気、師団の数と質、軍の装備、軍指導部の組織能力の五点だと強調している。以降ソ連の軍事理論の中核となる。
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戦うための士気が上がらずにソ連軍は苦心していた。日本はソ連を侵略していないため、日本への敵意を醸成するために主にふたつの方法がとられた。第一にプロパガンダの強化、第二に歴史(日露戦争の復讐)の利用である。
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東京の大本営は、関東軍が積極的な攻勢に出て勝利することを望んでいない。期待するのは本土決戦の間、ソ連軍を大陸に足止めすることだ。満州で勝っても本土決戦で敗れれば元も子もないというのが本音である。
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梅津参謀総長が全面的作戦の開始を命じるのは翌8月10日になる。一刻を争う時に作戦開始の命令が遅れたのは、大本営の参謀たちがなおも現実を認めようとしなかったからだ。
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つまるところ、日本陸軍が味方の将兵の命を軽んじる戦術を採用したのは、戦車・対戦車兵器・弾薬が乏しかったからだ。自己犠牲を尊び、上官への服従は絶対とし、将兵の人命を軽んじる教育もあいまって「陸の特攻」は全軍で推進されていく。
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絶対絶命でも降伏を拒む日本兵士は、ソ連軍には不気味に映ったようだ。あるソ連軍兵士はこう回想している。「誰一人退却したり、武器を置く者はいなかった。傷ついたサムライは腹切りをして降伏しなかった。野原一面に彼らの死体が散乱していた」
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[スメルシ] ソ連軍の諜報活動の特殊部隊。国防人民委員部防諜総局。スメルシは「スパイに死を」のロシア語の頭文字だとされる。
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なぜ民間人まで強制連行されたのか。8月23日にスターリンは50万人のソ連への移送を命じている。この「員数合わせ」として民間人が標的にされたと考えられる。現在、日本でもよく使われる「ノルマ」はロシア語だが、それを達成しなければソ連軍が処刑された。
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ロシアでは戦時中から現代まで、第二次世界大戦に従軍した将兵はファシズムや軍国主義と戦った英雄である。さらに現在のロシアでは、戦時中のソ連の活動について「誤った情報」を故意に普及させると、高額の罰金と懲役か禁固刑が科される。
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朝鮮北部からに日本人は自力で脱出する。命がけで平壌を脱出した一人がのちに小説家となる五木寛之である。買収したソ連軍のトラックに乗り三度目の逃避行を試みた。トラックがソ連兵の検問にひっかかると、着の身着のままの避難民には差し出す物がない。そこれで、そのほかの女性の「純潔」や「貞淑」を守るという名目で、接客業をしていた女性が犠牲になることが多かった。
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彼女らが素直に応じない場合、皆で引きずり出して、トラックから突き落としたりもした。非国民、などとののしったり、水商売のくせに、などとこづいたりもした。中には出かけて行ったまま帰ってこない女の人もいた。帰ってきたくなかったのではないか、と思う。私たちが引揚げて生きのびているのは、そんな人々の犠牲の上にである。(敗戦国民の純潔 五木寛之)
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軍隊による性暴力や略奪はあらゆる戦争で生じる。そして軍の上層部は戦場で将兵にたまた不満やストレスのはけ口として蛮行を黙認する傾向がある、これが普遍的要因だ。「兵士たちは疲れ、長く困難な戦いで消耗している。上品な知識人の観点から見るなど間違いだ」スターリン
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千島列島はふたつの点で米軍にとって重要だった。第一に海上交通の輸送路である。第二に千島列島を飛行場として使うためだ。本当にスターリンが恐れていたのは日本軍の攻撃ではなく、アメリカが先に千島列島を占領することだったのかもしれない。
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日本政府がポツダム宣言受諾を明らかにしていた後に始まった占守島での戦闘は、日本軍に自衛権の発動は認められたのかという議論もある。しかし、日本側はポツダム宣言を受諾し停戦の意志は明らかなのだからソ連軍は奇襲する必要はなかった。日本軍の自衛行動はソ連軍が奇襲しなければ発動されることはなかったのだから。
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占守島より南の千島列島の占領は、日本軍の協力で戦闘が回避された。結果的に占守島の戦闘は無駄ではなかったといえる。他の島々では無意味な強硬策をソ連側はとらず、両軍の将兵の命が救われたからだ。
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北海道への上陸作戦をスターリンはなぜ断念したのか研究者の意見は分かれる。第一に、南樺太や千島列島での日本軍の奮戦が北海道の占領を防いだとする。第二に、朝鮮北部と全千島列島でをソ連が占領するのを、アメリカが認めたのでソ連も妥協した。第三に、ソ連がアメリカとの関係悪化を恐れたのが最大の理由とする。
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スターリンへの返信でトルーマンは北海道の北半分を譲るのを拒絶した。日本の占領は米軍が主体となり分割占領を避けられた。トルーマンは「ソ連は無情な取引者」だとポツダムで見抜き日本の管理に参加させない決意を固めた。
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アメリカで千島列島の「喪失」の責任者を問うなら、ルーズベルトとトルーマンになるだろう。現在も北方領土問題にアメリカが消極的なのはこうした過去と無関係ではない。トルーマンは、ソ連軍が8月15日以降も戦闘を続けたことはもちろん、北方領土まで占領したのも咎めなかった。米ソ関係の将来を考えれば、連合国が力を合わせて日本に勝利したと演出する方がより重要だったのである。
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日露戦争の復讐を掲げ、日ソ戦争を正当化したスターリンだが、日本の復讐を人一倍恐れていた。そのひとつの方法が抑留だった。抑留者の総数も日本の厚生労働省は57万5000人とする一方で、多くの研究者はそれを上回ると考えている。
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ロシアでは、日ソ戦争の記憶は風化するどころか社会に刻む動きが加速している。9月3日の「大戦終結の日」は2023年6月に「軍国主義日本に対する勝利と第二次大戦終結の日」と名前を改めた。ロシアは日ソ戦争の記憶を、愛国心を高め、中露の連帯を誇示し日本を牽制するため政治的に利用している。
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以上引用です
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「日ソ戦争」は聞き慣れない言葉だ。
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著者によると1945年8月8日から9月上旬まで満州・朝鮮半島・南樺太・千島列島で行われた第二次世界大戦後の全面戦争を指すそうだ。
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戦後ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して北方領土を侵略したのは周知のとおりだ。
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米英との戦争が終わるもソ連は停戦に応じなかったわけで、読み進めるとポツダム宣言後の満州の戦いから密接に結びついているのが分かる。
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日ソ戦争の特徴は
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民間人の虐殺や性暴力など、現代であれば戦争犯罪に当たる行為が停戦後にも多発した。ソ連兵から受けた蛮行はいまなお日本人の集団的なトラウマとなっている。
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住民の選別とソ連への強制連行である。シベリア抑留は有名だが、大戦初期にソ連軍が占領したポーランドやバルト三国でも旧体制下の将校や官僚は容赦なく連行された。
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領土の奪取である。連合国は1941年の大西洋憲章から自国の領土拡大のために戦争しているのではないと強調してきた。戦後に東ヨーロッパや日本周辺で領土を拡大したソ連の行動はそれに反する(アメリカは沖縄、奄美諸島、小笠原諸島を後に返還している)
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の3つで、連合国側が日本に無条件降伏を強いるという目標のために画策した戦争だ。
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歴史にもしは無いけれど、もしアメリカの核がもう少し早く完成していたらアメリカはソ連を巻き込んでいただろうか。
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そしてもし南樺太と千島列島をアメリカに占領されていたら、今ごろ沖縄や小笠原諸島のように返還されただろうか。
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もうひとつは占守島で火事場泥棒の猛攻に耐えた日本師団の奮闘だ。
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もし先人が命がけで戦ってくれなかったら、北海道北部はソ連自治区だったかもしれない。
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日本は連合国の攻撃に加えて、国内でも内閣と陸軍の間に軋轢があった。
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戦争を始めるのは簡単だけれど終わらせるのは難しい。ましてや降伏するならなおさらだ。
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最後に「日本共産党 「革命」を夢見た100年」から
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「負けたのは特定の型の社会主義に過ぎない」という人は、往々にして「社会主義Aは失敗したが、社会主義Bはまだ試されていない」という風に考えがちである。
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だが、それは社会主義の歴史を踏まえない見方である。1950年代半ばのスターリン批判以降、さまざまな国でさまざまな仕方でスターリン型社会主義からの脱却の試みが30年以上もの間続いてきたことを思えば、問題は「社会主義Aも、社会主義Bも、社会主義Cも、社会主義Dも、社会主義Eも・・・失敗した後に、なおかつ社会主義Xの可能性をいえるか」という風にたてられねばならない。
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そして、これだけ挫折の例が繰り返されれば、もはや望みは一般的にないだろうと考えるのが帰納理論である。
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ロシアが歴史から学べない国なのは歴史を見ればよく分かると思うよ。支配層を動かしているのは脈々と受け継がれる醜悪なイデオロギーだ。
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それはロシアが崩壊しても変わらない、たぶん・・・

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