「謝罪論」を読み終えた。
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タイトルが面白そうだったので購入(笑)著者は東京大学の准教授で、哲学と倫理学が専攻だそうだ。この人の本は初めてだった。
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「日本人ってよく誤るけど、言葉だけで何もしてくれない」そんなコメントを日本で生活する外国人からよく聞きます。各国に謝罪を示す言葉があります。しかし、謝罪の意味は同じではありません。A文化では、謝罪をすることは自分の過失を認め、相手に補償することと考えます。B文化では、責任を取るかは別問題だが、相手の気分を害することを理解していることを示すことが謝罪の第一歩だと考えます。日本はB文化です。「すみません」という言葉は感謝にも謝罪にも使える不思議な言葉です。翻訳するなら「あなたに余計は気遣いをさせたことを私は理解しています」と考えるといいかもしれません(日本語学習・生活ハンドブック)
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愛そうと思っても愛せるとは限らないのと同様に、赦そうと思いさえすれば赦せるわけではない。感情とは自と湧き出てくるものであって、完全には自分の自由に成り得ないのだ。むしり、相手を心から赦せたという状態は、被害者にとっても予見できないかたちでいつの間にか我が身に訪れるものであり、その意味で一個の僥倖に属するとも言える。赦しの行為は決して予見できないのである。
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赦しと罰は介入がなければ際限なく続く何かを終わらせようとする点で共通している。
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司法の第一の目標は、被害者のための回復と癒しでなければならない(ハワード・ゼア)
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人は、他者の尊厳を踏みにじる態度を自分が示したとき、自分自身に対してネガティブな反応的態度 --- 良心の呵責、罪悪感、恥じ入る態度 --- などを向ける。これらの感情は、そのままでは自分の精神を蝕み、自分を尊重する心自体を傷つけることにもなる(ストローソン)
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赦しとか神の賜物であって、赦す気になれない人々が、そのことによって罪悪感というさらなる重圧に苦しむようなことがあってはならない。
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謝罪の中心的な機能とは道徳的な失敗として認識されたものによって緊張が生じたり破壊された関係を修復すること、あるいは、その種の失敗によって関係が緊張するのを防ぐことである。
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懐疑論は謝罪のさまざまな局面に影を落とす。本当に申し訳ないと思っているときですら、そのことを相手に伝えるという行動にでるのは「結局のところ本人が楽になりたいだけではないか」その意味でやはり「自己利益を追求する利己的な行為になっているのではないか」という種類の疑いが他社から向けられるだけでなく、自分自身の内面にも生じることがある。
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何か重大な出来事が起こったとき、人はそれがたまたま理不尽に生じたという風には呑み込みがたい。代わりに、それが生じた理由や原因を求める強い傾向がある。
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謝罪の対象が複数にわたるとき、人は得てして、より影響力や権力のある者に対してまず優先的に謝ろうとしがちだ。しかし、謝罪を優先的に受けるべきなのは、当事者の中で直接損害を被ったものや、最も重大な損害を被った者であるというのは、我々に広く共有されている道理である。
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[集合的責任] (1)自分自身がしていないことに問われること (2)自分の自発的な行為では離脱できない集団に属しているがゆえに負うべきもの
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財産や財産権など、自分の意志で放棄できるものを前世代から受け継いでいる場合ですら、道義的にも法的にも、前世代のしたことについて謝罪しなければならないというわけではない。まして、どこそこに生まれ育ち、そこで継承したものが自分の多くの部分を形づくっているという、自分では動かし得ない事実によって、人が謝罪の義務を負うことはあり得ない。
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ヒトラー政権がユダヤ人にしたことについて、戦後に少なからずドイツ人が発した「私たちの誰にも罪がある」という叫びは、一見した限りとても高貴で魅力的なものに聞こえた。しかし、実際には罪を負うべき人々の罪をかなるの程度軽くする役割を果たすだけだった。私たち皆に罪があるのだとしたら、誰にも罪はないということになってしまうからだ。
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謝罪を受容せよというその圧力とは、「謝罪した人間は赦すべきである」という寛容性規範です。寛容性は道徳性の一部であり、多くの文化において寛容性を高尚な人格の一部とみなしています。それ故、被害者には、謝罪した加害者を赦すようにという社会的圧力が働くわけです。
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患者が訴訟に至る主要な原因は、不十分なコミュニケーションであり、また医療者に対する賠償請求の額はコミュニケーションの中断および苦情の存在と相関している。患者などを医療過誤訴訟に駆り立てるのは、賠償金を得ようとする強欲さではない。むしろ、不十分なコミュニケーションからもたらされる怒りこそが医療過誤訴訟を招く原動力なのだ。
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言葉だけを見てその意味を決め打ちすることについては相当慎重でなければならない。「I'm sorry」や「I regret」、あるいは「すみません」、「申し訳ありません」といった言葉には独特の両義性、曖昧性があり、それがあるからこそ、これらの言葉でしか表現できない思い、この言葉がしっくりくるという思いというものがある。例えば、必ずしも過失の承認を含まない後悔や申し訳なさといった心情である。
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遺憾という言葉には「申し訳ない」とか「すまない」といった意味はなく、専ら「期待したようにならず、心残りであること。残念に思うこと」を意味する。したがって、謝罪が期待されている場面でこの言葉を用いることは、自分が非難されるべきことをしたつもりがないという否認を意味することになる。
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以上引用です
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読めば読むほど謝罪の必要性と難しさ、奥深さがよく分かる。
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著者によると謝罪の定義は難しいそうだ。日本と英語の違いによる謝罪の齟齬も面白かった。文化の違いでもあるだろう。
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(適切に)謝るのも難しいけれど、(適切に)謝られるのも難しい。
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これが素直な感想だ。
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メディアでは何かしらの謝罪会見が連日報道されているよね。個人の浮気、当て逃げ事件から、企業の性加害、裏金までさまざまだ。
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一般的に前者の比較的軽い謝罪よりも、重い謝罪になるほど難しい。特に謝罪すべき当人がすでに亡くなっている場合、国家間の過去の責任に対する謝罪などはセンシティブなものになるだろう。
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そして、主客と客体が増えれば増えるほど事態はより複雑になっていく。
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テレビドラマ「北の国から」で謝罪する件がある。
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五郎と純が当初した土下座は、誠実さを示そうと思った反面「謝れば自分たちの気が済む」「このけじめやみそぎを済ませれば自分たちがラクになる」という利己的な意味合いもあったんだよね。
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つまるところ、誠実さと利己性のパラドックスだ。
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人は定型句とパフォーマンスの打算的な謝罪に誠実さは感じない。その一方で、真摯な態度を示せば信頼を回復するチャンスでもあると思う。
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謝罪は物や金銭、物質的な補償だけの問題ではないよね。
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更に言えば、自分自身がどういう人間であるか、どういう人間でありたいか、どういう人間であると思われたいかが問われているのだ。
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個人的に思っているのは、ささいな被害なら「赦してしまえ」ということだ。そうしないと巡り廻って自分が参ってしまい、結果日々の生活が台無しになってしまう。
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理想は、謝罪せずにされずに過ごすことだろうか。加害者にも被害者にもならないと・・・いや無理無理(笑)
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かく言う自分もアルバイトではよく「すいません」と言ってる。もはや何にすいませんかも分からないくらいに(笑)便利なクリシェイだと思う。
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最期に少し長いけれど印象に残ったところを
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むしろ最も重要なのは、マニュアルでは対処しきれない現実の難しさに対して、骨折ることを厭わずに向き合ってよく考えることだ。損害を埋め合わせることの難しさ(損害の取り返しのつかなさ)、和解や赦しの難しさ。心から改心することの難しさ。誰かとともに --- あるいは、誰かの代理や代表として --- 謝罪することの難しさ。そして誠意を証し立てることの難しさ。
相手に圧力をかけて問題の解決を図ること --- 土下座をし続けるとか、周囲の同情を買うなどして、和解や赦しを相手に事実上強いるといったこと --- はこうした難しさから逃れ真摯な謝罪を諦めることだ。また謝罪する側だけでなく、謝罪を要求する側も、こうした難しさを無視することで真摯さを失う恐れがある。
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「誠意って、何かね?」
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勉強になりました。
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