「客観性の落とし穴」を読み終えた。
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著者は基礎精神病理学・精神分析学博士だそうだ。面白そうだったので購入。
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数字だけが優先されて、生活が完全に数字に支配されてしまうような社会のあり方に疑問があるのだ。数字への素朴な信仰、あるいは数値化できないはずのものを数字へと置き換えようとする傾向を問い直したい。
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「科学の客観的な価値とは何か」と問うとき、その意味は「科学は物事の本当の性質を教えてくれるか」ということではない。「科学は物事の本当の関連を教えてくれるか」ということを意味する(アンリ・ポアンカレ)
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以前、同僚のアーダに「フィンランドに、いわゆるいい学校ってあるんですか?」と質問したら「家から一番近い学校」と言われた(学校間の序列が無いため)
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学生のコメントカードに「それは客観的なのですか?」とか「客観的に見てみたいと思いました」というのがよくある。こちらは「客観 = 真理といのが錯覚だ」「量的研究も研究のセッティングで恣意的なのだからどっちが正しいとは言えない」と繰り替えしているのだが、客観性信仰・統計信仰が根深い。
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私たち一人ひとりの経験は、客観性に従属するものに格下げされてきた。数値によって人間が序列化されたときには、一人ひとりの数字にならない部分は消えてしまう。
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サイコロを何万回と試してみたら、5のマスが出る確率は限りなく6分の1に近づくだろう。この6分の1という数字が確率である。しかし次の一振りでどのマスが出るのかは、6つの可能性へと枝分かれする偶然なのだ。確率とは人生の偶然を枝分かれに見立てながら多数のサンプルを集めて客観化することで枝分かれの偶然性を飼いならす営みだ。
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1939年にヒトラーが署名した「T4作戦」によって、20万人の障害者が虐殺された。この虐殺の論理的根拠となったのが1920年に出版された「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」という小著である。著者のビンディングは「存在する価値のない生命はあるのか」という問いに対してイエスと答える。価値を失った存在には二つのグループがあるという。一つ目は苦痛ゆえに自ら安楽死を望む病者であり、もう一つのグループが重度の障害者である。
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人間として70年養うためにはどれだけの金と人手、物資が奪われているか考え、泥水をすすり飲み死んで逝く子供を想えば、心失者の面倒をみている場合ではありません。心失者を養護するものは、心失者が産む「幸せ」と「不幸」う比べる天秤が壊れて、単純な算数が出来ていないだけです。目の前に助けるべき人がいれば助け、殺すべき者がいれば殺すのも致し方がありません。(植松聖(障害者を19人殺傷)が獄中で話した言葉)
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以上引用です。
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数字で示してもらえますか?
それって個人の感想ですよね?
その考えは客観的なものですか?
エビデンスはあるんですか?
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こんなことばかり言っているやつとは付き合えない(笑)
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今までずっと非科学的で、独りよがりで、あやふやだった物事が、科学的で客観的で、再現可能な事柄になるのはいいことだと思う。
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一方で、世の中があまりにもシステマティックになると、それ以外のものは認めない、窮屈で排他的な社会になるということなのかな。
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つまるところ、寛容性がなくなると。
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読みながら、極端かなーと感じるところも少なからずあった。
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例えばここ
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外国籍だけであるという理由だけの理由で、日本では人が死んでも構わないのだ。子供や外国籍の人といった弱い立場に置かれた人の人権が簡単に無視される国に私たちは住んでいる。
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スリランカの方が亡くなられたのは本当に残念なことだけれど、個人的にここまでは思わないかな。
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あとね、北海道の「あすなろ福祉会」が障害者の子育てを否定していると批判している件。先日ちょうどこのドキュメンタリー番組を見ていた。
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自分の印象では、子育てを否定している訳ではなくて、一民間企業が生涯を通して子供を含めた親子の生き様の責任は取れないということなんじゃないかな。本来国がバックアップする案件だろう。
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作者が一番伝えたかったのは、「真理はそれ以外にもある」「一人ひとりの経験の内側に視点をとる営みは重要だ」という客観性以上に「貧困や格差の是正、弱者の救済」のように感じたかな。
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実際行き過ぎたところはあると思うし、言いたい事は分かるんだけれどね。
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興味のある方はどうぞー
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