「ブッダという男」を読み終えた。
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著者は文学の博士号を持ち、佛教大学総合研究所特別研究員らしい。
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小さい頃に読んだ手塚治虫さんの漫画「ブッダ」が好きで、面白そうだったので購入。
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ブッダが戦争を非難し止めなかった理由は、そもそも古代インドにおいて、国を支配し武器を持ち戦うことは武士階級に課せられた神聖な生き方として認められていたからである。
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ブッダの生命観とは
1. 殺生は悪業であり、それが善業であることはあり得ない。
2. 五つの無間業(父、母、悟った人を殺すこと、僧団を分裂させること、ブッダの体から出血させること)を犯すと来世の地獄堕ちが不可逆的に確定する。
3. ゆえに、この五無間業以外の悪業ならば、たとて幾万もの人を殺めても本人の努力次第ではその報いを受けずに済む。
4. 逆にこの五無間業を犯してしまうと、その後いくら努力しても来世の地獄堕ちは回避できない。
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初期仏典では、当時の社会に階級的区別があることを認め、しかもそれは悪業、善業の報いによって決まることを説いている。卑賎の家に生まれたのは過去世の悪業が原因であり、司祭階級や武士階級の富裕な家に生まれたのは過去世の善業が原因であるというのである。したがって隷民として生まれ苦しんでいたとしても、それは自業自得である。
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ヴェーダ聖典では四階級の起源について、原人プルシャの口から司祭(バラモン)が生まれ、両腕から武士(クシャトリヤ)が生まれ、両腿から庶民(ヴァイシャ)が生まれ、両足から隷民(シュードラ)が生まれたと説かれていた。生まれによって貴賤が決まるという場合、究極的にはこのヴェーダ聖典が法源になっている。
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ヴェーダ聖典の古層では、祭祀によってしか天界に再生できなかったが、深層ではこの構造が業(カルマ)の理論によってのみ込まれる。なぜなら善悪の行為が来世を決定づけるならば、祭祀に頼らずとも善い行いさえすれば天界に再生することが可能だからである。したがって、ヴェーダ聖典を法源とする祭祀の絶対性を否定したのは、皮肉にもヴェーダ聖典自身であった。
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仏教における業(カルマ)の善悪は、「悪口は言わない」「人の物を盗まない」などを推奨して人倫の維持に寄与している一方、宗教的な面からすれば、仏教の信仰は善であり、異教への信仰は悪という非常に単純な構造になっている事実は揺らがない。
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無知という原因から意志的作用が生じます。意志的作用という原因から認識が生じます。認識という原因から名称と形態が生じます。名称と形態という原因から6つの認識器官が生じます。6つの認識器官という原因から接触が生じます。接触という原因から感受が生じます。感受という原因から渇望が生じます。渇望という原因から執着が生じます。執着という原因から生存が生じます。生存という原因から誕生が生じます。誕生という原因から老いと死、憂い、悲しみ、苦しみ、悩み、愁いが生じます。このように一切の苦しみの集まりの生起があります。
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[縁起] 輪廻する個体存在のありようを観察し、まず順観において輪廻の根本的原因が無知にあることを突き止め、そして逆観において無知とそれに付随する煩悩を断じることで輪廻の苦しみも断じられること。
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LGBT問題の解決を聖書や仏典のなかに求めようとする動きも活発化している。だが、はるか古代に成立したテキストが現代的価値観の正当性を積極的に裏付けることは少ない。聖書においては、同性愛が明確に禁じられているため、LGBTを容認するためには大胆な解釈が求められ、その是非をめぐって諸教会が分裂状態にある。仏教はキリスト教よりも同性愛に寛大であるが、それでもブッダがLGBTを積極的に容認していたとは想定しがたい。同性愛であれ異性愛であれ、そもそも性愛を求めることは煩悩の一つである。
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そもそもブッダやイエスが生きていた時代に、現代的な意味での平等主義やフェミニズムといった価値観は存在しなかった。そのような価値観の先駆者としてブッダやイエスを位置付けようとする試みは、現代人にとって魅力的ではあるが、それは歴史問題ではなく、むしろ解釈学の領域にあることを自覚する必要があるだろう。
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以上引用です
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ブッダは本当に平和主義者で、穢れひとつない聖人君子だったのか?
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という疑問を(出来る限り)主観性や願望を取り除いて、客観性と仏典から紐解いた感じだろうか。
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まずブッダという人物を簡単に説明すると、ゴータマ・シッダッタ(ブッダ)という人物は、およそ2,500年前に生まれた。
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武士階級の出身で若くして世を厭い出家する。当時のインドでは司祭階級が支配する伝統的なバラモン教に対する「沙門」と呼ばれる自由思想家が闊歩していた。
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彼もその一人として修業し、35歳で悟りを開いてブッダと呼ばれるようになると。
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個人的には、手塚治虫さんの漫画「ブッダ」のイメージが強い。殺生や盗みをせず、慈愛に満ちた平和主義のイメージだ。おそらくこういった人物像を描いてる人は多いんじゃないだろうか。
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しかしながら、実際は(本を読む限り)かなり違うようだ。
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逆に美化され神格化された偶像よりは、人間味があって親近感を覚えるかな(笑)昔の人も現代人と同じように悩み苦しんでいたんだなと。
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ブッダほどではないかもしれないけれど、ガンジーやマザー・テレサも禁欲と博愛を貫き通したか疑わしいと言われるからね。人間は誰もが完璧ではないんだろう。
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宗教は、心の発達の過程で志向性のレベルが上がらないと成立しなかった。
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「私は「雨が降っている」と思う」(一次志向)とまでしか考えられない場合宗教にはならない。
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「神が存在し、私たちを罰する意図があることを、あなたと私は知っているとあなたは考えていると私は思う」(五次志向)とまで考えられるようになって初めて共有宗教が成立する。
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25世紀前の世界はどれくらいの志向性だったんだろう。
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ブッダの生涯と同様に仏教の変遷も興味深かった。仏教はメインストリームのバラモン教から、ジャイナ教とともに派生、分離するんだよね。
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キリスト教やユダヤ教と同じように、宗教は必ず分派してその系統を伸ばしていく。たとえ教祖が殺されようが、迫害されようが地下に潜りその思想は引き継がれる。これは現代にも当てはまる法則だろう。
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輪廻、縁起、六師外道の件も読み応えがあった。
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ちなみに「天上天下唯我独尊」は、ブッダが生まれたときに呟いたとされる言葉だそうだ。えー!
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オギャーと生まれた瞬間に「この世で自分こそが尊い」とは(笑)
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研究者の中でも様々な解釈がある。ある意味、この本はタブーへの挑戦だ。後書きによると、某方面から圧力がかかって出版停止に追い込まれそうになったらしい。
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言論封殺はあってはならない事だよね。反論された側はまた文章で反論する権利があるのだから。それだけでも一読の価値はあるんじゃないかな。
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もしブッダが(現代の価値観からして)レイシストで暴力を容認していたとしても、自分の中で偉人であることに変わりない。
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悪行よりは善行を積んで死にたいと思うよ。
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最期に印象に残ったところを
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多くの仏教者たちが初期仏典を脱神話化すれば歴史を抽出できると憶断して「歴史にブッダ」の復元を期したが、その試みのほとんどは己が願望をブッダに代弁させただけであった。これら「歴史にブッダ」と称されるものは、19世紀になって初めて誕生した「新たな神話」なのである。
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ブッダは現代人ではない。我々はブッダに自らの願望を語らせることも、現代的な価値観から一方的にブッダを批判することも避けなければならない。
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興味のある方はどうぞー
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